地縁を感じた日
道は続いている。―行き止ることも有るし、曲がりくねることも有る。
街道が交通の重要な手段だったその昔、東京の日本橋を基点として、5つの街道がまるで大動脈のように、日本列島へ伸びていて、そこからまた分岐していったわけだ。
先祖の出身地は信濃追分という浅間山南麓のふもとの小さな村である。名前の通り、信州のとある道の分岐点である。中山道が北国街道と分かれているところであり交通要所であった。そんなわけで浅間山のふもとにある宿場の中では、大きいものだったそうだ。つまり今で言うところのインターチェンジ。信濃追分・沓掛・軽井沢と続いて、江戸へ向かうその先には、「碓氷峠」という難所があった。現在はこの三宿はすべて「軽井沢町」でくくられる。
信濃追分の標高は約1000m。ここから中山道方面は下りになる。次の宿場は「小田井」だが、つまりその「小田井宿」から浅間山に向かって来ると、上り坂の向こうに「(信濃)追分宿」があることになる。 夕闇が迫り、疲れてきてそろそろ今夜の泊りのことを考えた時分、前方に見える宿場の明るい様を見て思わず笑みがこぼれるということから「笑坂」と言う地名ができ、その題名で後藤明生が本にしている。宿場であるから、飯盛り女たちもいた。
鉄道がしかれ、街道を歩く人も減るとともに、浅間山の火山岩に覆われた大地には、ろくな農作物は育たないし、かといってここには大きな地場産業もなく、「街道の分岐点」は役目を失い寂れていった。
その寒村に芥川龍之介らが興味を持ち、その芥川につれられて堀辰雄も訪れた。若い立原道造らもまたこの村が気に入った。
あたかも立原道造の「のちのおもひに」という詩のように、私の気持ちもしばしばこの山村に向かっていく。
火山岩に覆われたこの高原には、草木もろくに生えない。この詩のできた昭和10年代に、太陽に焼かれて白く光っていた林道は、私の子どもの頃にはまだ舗装がされておらず、草ひばり(鳥に非ず)の鳴いているこの詩の光景がたやすく想像できたが、今はもうできない。
道は舗装され、落ち葉がつもり、手入れされずもっと堆積。あたりは鬱蒼と木が茂り、かつては林道からいい眺めだった浅間山も、もう見えない。
そんな村へ私はこれから帰ろうとしている。
23日、村で祭りがあった―「しなの追分馬子唄道中」。街道に面したところに建てた家で商いを始めようとする我々に、村の人は温かく声をかけてくれた。私の祖父がこの地を捨てて東京へ出てから80年ほど経っているわけだが、まだ屋号で呼んでくれる人がいるうちに、戻っていくことができて嬉しい。