otobokecat’s blog

たまに本を読む猫

雪の上の足跡

otobokecat2008-01-24

東京ではごくたまにしか降らない雪なので、翌日は好天!と思いきや、突風が吹き荒れ、手すりに干しておいた傘がふたつとも飛ばされて焦る。幸い階下に落ちていて回収できた。冬に傘を飛ばされるというのは珍しいように思う。低気圧の仕業?

傘は飛ばされても、空は青い東京だ。


引越しにあたって、ほとんどの本が「いの一番」に追分に運ばれてしまい、現在、アパートには本がろくに無い状態。箱と格闘の日々で、本を読む時間も無いわけなので、それはそれで構わないが、ふとみるとNEGIさんに外市のときいただいた『花を持てる女』(堀辰雄 角川書店 昭和26年)がひっそりと空いた本棚に隅に佇んでいるではないか。この本こそ追分に置いておくのが似合っているというのに。

この作品集の最後に入っている『雪の上の足跡』は1946年2月に書かれたもので、主と学生の対話で成り立っている小品だが、中に私が好きな一節が有る。

主  さう、有りそうな気もする。ところが、ありさうで無いんだ。なんにも無いくせに、そんな雰囲気だけはもつてゐる―そこがまあ現在のこの村の一種の持味で、僕なんぞにはかへってぴつたりしてゐるのだらうと思ふ。こんなに荒廃して、それがそれなりになんとなく錆びて落ち着いてきてゐる、そんなところからさういふ一種の味がでてゐるのだらうね。だから、つまらないことまで、妙に生き生きとして感ぜられて来ることもある。

堀自身、あとがきにこう書いている。

回顧的な要素が多くおのづから私の半生の跋にふさわしいものとなった。

雪の上に様々な足跡をみつけ、そのなかに誰のかわからないものも…どこからかレクイエムが聴こえてくるような。
否、真冬の追分ならヴィヴァルディの「四季」の冬あたりか。

『雪の上の足跡』は戦後はじめて書かれた作品であることにも注目したい。


■今日の蒐集:牛乳瓶の蓋

小学校のバザーで毎年好評だったマグネットは、給食の牛乳の蓋を子供に頼んで集めてもらって、皿として利用してる。洗って、乾かして、アクリル絵の具を数回塗り重ねて…と手間はかかるが、生まれ変わった蓋を学校のバザーで売ることに意義を感じて、手芸サークルの仲間とちまちまと作業したものだった。皿の上の「ご馳走」はオーブン粘土で出来ている。
ドーナッツの年、ピザの年、プリン・アラモードの年と進化しておりました。

我が家では牛乳屋さんに瓶の牛乳を配達してもらっているが、ふたはもはや紙製ではない。

もうこの紙蓋は手に入らないのだろうか? 
―となると手持ちの蓋は貴重品!仕舞っておこう。
捨てられない病が進行中。