otobokecat’s blog

たまに本を読む猫

春の扉をたたく音

otobokecat2009-03-16

ここ数日、早朝の庭にドラミングの音が軽快に響いている。キツツキによる春の太鼓だ。
今朝は窓からもアカゲラコゲラが幹に張り付いて、木の周りをらせん状に回りながら登り、時々とまって木をたたいているのがよく見えた。つついているのが木なので静観していられるが、家の外壁だったり戸袋だったりすると音量はものすごく騒音公害となるくらい、きつつきの木をたたく力は強いらしい。よっぽど首が強いんだろうな。一方、鳥の恋の季節も始まっているようで、あたりは賑やかになってきている。裸木の林だと野鳥観察がばっちりできる。
ばっちり見えるというと、そのうちあたり一面緑となって埋没してしまうが、今は倒木についた苔も貴重な「緑」資源としてばっちり見える。林を歩いていて、灰褐色の木立と褐色の地面のなかでその緑の島に出くわすと、あまりにもみずみずしくてちょっとドッキリしてしまう。


昨日の晩、テレビで里山の一年の様子を巧みなカメラワークで見せていたが、それを見ながら、私はいくつかの言葉の使い間違いをしていることに気がついた。まず一つは、今まわりにあるのは雑木林ではないということ。コナラ・ヤマグワ・クルミ・ミズキ・コブシなどの木がただ茫々と生えていて、いかにも雑木の林だが、本来雑木林とは人間の手が入った手入れされた林である。クヌギを一定の期間で伐採し、萌芽をさせて、切った木をホダギにしたり炭にしたりして活用し、木には洞ができて動物の住処になったりする。ホダギの役目が終わった木も積んでおくと、昆虫の住処になったり、それを求めて動物がやってきたりして、やがて土に返って行く。一つの循環サイクルが出来ている。それに比べれば、この林は手入れの無い原生林というべきか。山火事や、一昨年の大きな台風によって一掃されるが、基本的には生えっぱなし。倒木に苔むしたところこそが、雑木林の循環サイクルに比べれば気の遠くなるような自然によるゆっくりとした循環の証しなわけだ。同じくキツツキの開けた穴もまた、様々な役に立っている。
もう一つの間違いは「ひこばえ」。「ひこばえ」は自然の芽吹きのことではなく、切った木の切り株から湧き出てくる新芽のことであった。私が見つけた小さい木は自然による種まきの結果であり、スローな流れの一端であった。台風後、開けた林には早速次世代の木が成長をはじめている。我々もこの冬はあのときの倒木を切った薪で乗り切ることが出来た。今となってはあの20年に一回の大災害も、自然界の中では大事な循環の一つだったと思い当たった。

人間界の100年に一度の不況も、一つの循環となることができるのだろうか。
この本もまた別の読み方が出来るのかもしれない。

おおきな木

おおきな木

FM軽井沢によれば、昨晩遅く久々に噴火が確認されたという。
今朝の噴煙は静かだが、昨日もさほどでもなく、むしろ数日前の方が勢いがあったようにみえたがなぁ・・・。