otobokecat’s blog

たまに本を読む猫

なごり雪

16日の夜は、17日の小布施行きに備えて何時に無く早く就寝してしまいました。16日、日中降ったり止んだりの季節外れの雪は、夜になって次第に本格的に降り始めていました。念のため、明日の出店の準備が整った車を、道路近くに停めておきました。
そして翌朝5時に起きてみたら、まぁあたりは真っ白!雪があたりをすっかり覆い隠して20cmは積もり、花をつけていたカタクリなどすっかり埋もれていました。雪は冬の雪で細かくて軽いものの、20cmも積もると雪掻きが必要でした。なんとか這い出して、雪道を小布施に向かったのは前回のブログの通りです。

18日は番頭ひとりが朝早く小布施へ出かけて行き、私は早めに村へ降りて、暖簾を出し店番をしていました。そして小布施からの電話で堀多恵子さんが亡くなったことを知ったのです。ひとり店でぼーっと窓外の消え行く雪を見ながら、16日の夜10時に旅立たれたと聞き、この雪は冬の追分も愛した多恵子さんの名残り雪だったのではないかと思いました。
 2010年4月18日

昨年末にお目にかかる機会がふいに訪れ、酸素吸入しておられると聞いて心配していたのですが、お目にかかってみると、車椅子は使われていましたが、リビングでくつろいでいらっしゃって、お顔もお元気そうだったので、安心しました。
「暖かくなったら店に伺えると良いけれど」とおっしゃっていたのを真に受けて、春になるのを心待ちにしていましたが、かなわなくなりました。すでにこのとき医師から「外出禁止令」が出ており、年齢も考えると春になったからとお出かけになられる可能性などほとんど無かったにもかかわらず、変わらずにこやかに、しっかりとお話もされて、多恵子さんは永遠に追分におられるような気がしていました。「でもそろそろ辰雄の近くに行かせてくださいと言っているの」ともおっしゃっていました。あまりに穏やかにそう言われるので、あまり深刻に思わなかったのでした。
堀多恵子さんは堀辰雄が1953年に追分で亡くなってからも、ずっと追分の地で「堀辰雄」の人と作品を守り続けてきた偉大な作家夫人で、ご自身も文筆家でもあり、この寒村のことを愛してくださって、村の地元の人は誰しも堀さんのことを宝と思っていました。ふた冬前に亡くなった加藤周一氏が『高原好日』のなかで堀多恵子さんのことを知性と努力の人と書いていることからも、その素晴らしさがわかります。
本屋がこの村にできたことを「辰雄が知ったらどんなに喜んだでしょう」と喜んでくださったことがありました。
身に余るその言葉を胸の奥にしっかりとしまって、これからも精進していきたく思います。

18日になってようやく雪の中から顔を見せたカタクリ。葉はまだ埋もれています。




最後の地面の一塊の雪が消えていきました。

あたりは鳥のさえずりが一段と賑やかになりました。閉じてしまったカタクリの花もまた開くでしょう。ここからは堰が切られたように、足止めをくった春が、この村になだれ込んできます。
明日の教会でのお別れには、まだ野の花が手向けられそうもありませんが、緑の風が吹いて、花が開くたびに多恵子さんのことを思うでしょう。
多恵子さん、有難うございました。