otobokecat’s blog

たまに本を読む猫

三昔前の記憶をたぐる

otobokecat2010-05-10

ずいぶんと久しぶりに東京へ出ました。一ヶ月ぶりでしょうか。
思えばいろいろなことのあった激動の一ヶ月でした。春の大雪が降る中小布施に行き(17・18)、堀多恵子さんが亡くなられ(16日)、お葬式があり(20日)、今期イベント1号の自然観察会があり(25日)、連休の11連続営業(29-9)がありました。その間季節もめまぐるしく移り変わりました。

花盛りの追分を今朝8時に出発。インターチェンジ入り口付近は、新緑の合間に山桜がぽっぽっと咲いて、いかにも柔らかな春の山の風情でした。碓氷峠から下仁田あたりまでは山藤が見事でした。
今日の中央市に出品する本を縛る元気はなく、手ぶらでの参加でしたが、先週と来週が休会なので、たくさん出品されているだろうと目論んで出かけましたら、勘はあたっていました。久々の入札だったわりには、全滅でなくて良かったですが、ボリュームが多くて少々くたびれてしまい、帰りの車の中で眠ってしまいました。(ドライバーさん、すみません!)
「お久しぶりです」と挨拶の出来る場所があることは嬉しく、何人かの書店さんとおしゃべりもしました。北軽井沢のKiji・booksさんも来ていました。(山の向こうとこちらなのに、お互い連休中は忙しく、はるか離れた東京で「連休どうだった?」と話すのも変な話ですが。)
市場の合間に神保町界隈ををうろうろするのもまた楽しみの一つです。取次ぎ店で新刊本の注文を出したり、銀行で記帳したり、新刊本屋さんの店頭のベスト10を見たり、新刊本が棚に並んでいる様子をみたり、文房具を買ったりします。そんな中、今日は新刊本屋さんで思いがけない出会いがありました。
 ■福永武彦『病中日録』鼎書房 2010 を見つけたのです。
福永武彦の『玩草亭百花譜 上中下』(中央公論社)は、福永武彦信濃追分の山荘:玩草亭で1975年8月から1979年7月に執筆活動の合間に日記のように書いた草花スケッチと小文をまとめたもので、立派な単行本3冊(81年)、後に普及版、文庫本で発表されています。
この『病中日録』もイラスト入りの簡単な日記のような体裁でメモ帖に残されていたものを、それがどういった経路をたどったかはわからないですが古書の市場に出て(2007年)、手に入れた編者が一冊の本に纏め上げ出版したものです。1978年7月〜10月の日記(メモ)で、時期的には『玩草亭百花譜』に重なるものですが、なぜかこの部分は未発表のままになっていたもののようです。池澤夏樹氏の言葉が帯に書かれているので、勿論了解を得て作られたものだと考えられます。
『玩草亭百花譜』は追分の自然の記録としても、図鑑などとはまた違った素朴な絵とさりげない文章が素晴らしく、追分人なら誰しも傍においておきたい3冊ですが、こちらもまた添えてもっていたい一冊です。
特に個人的に私はなんと30余年前のわが身を紙面に見つけ、思わず声を上げてしまいました。
祖母と病気療養中の福永氏をお訪ねしたことがありました。あまり具合が良くないと伺っていたので、夏の間ずっと遠慮していましたが、夏も終わりに近づいたある日、祖母はほおずきを福永さんに見せたいと思い、散歩の途中でお届けしたところ、たまたま起きておられて、お目にかかったのでしたが、その時のことが一文ではありますが、この『病中日録』に書かれてありました。
この小さな本が出来た紆余曲折を思うと、小さなため息が出てしまいます。『玩草亭百花譜』と比べると『病中日録』からは福永武彦の息遣いがよりはっきり聞こえてくるようで、この部分をあえて『玩草亭百花譜』に含めなかった意図もまた見えてくるように思います。あくまでメモであり、病状のことなどは作家福永武彦の美意識にかなわないかと。また度々出てくる堀多恵子さんに関する記述などもなかなか微妙であり、誤解の部分も少なからずあるように思われ、堀多恵子さんは生前この本を目にされたのかどうか、少々気になるところです。
どちらにしても福永武彦も貞子夫人も、堀多恵子さんもすでにもういらっしゃらない今となっては、メモ帳がしかるべき方の手に渡り、印刷されて資料として日の目を見たことは幸いだったと思わずにはいられません。

追分の本屋としては、この本は仕入れておかなくてはいけない一冊ですが、追分の人が文中に出てきますので、棚にひっそりとさしておくのがいいかと。

あのほおずきが入院先の病室にまで持ち込まれていたということを、いつか墓の下の祖母にも教えてあげようと思います。

写真:ヤマブキ、ムラサキケマン、ミヤマウグイスカグラ