otobokecat’s blog

たまに本を読む猫

塀は誰のため?

静まり返った境内

珍しく雨が降ったことを書きました。それから24日はヤケに春めいて、地面が顔を覗かせてきて、今が二月のことをふと忘れて、このままずっと春に向かって歩き始めるかなと錯覚していました。
それが一転、昨日は起きたら雪が降り続いておりまたまた真っ白くなっており、オセロの如し。10cmほどですが雪に覆われてしまいました。午後三時頃ようやく止んだものの、終日晴れることなく霧も出て何処もかしこも真っ白な追分でした。三月の存在を見過ごしていたというわけです。勇み足でしたね。ついついテレビの梅まつりの画面に惑わされてしまいました。反省。写真は浅間神社境内です(2/25).


昨日は、とある方の古い別荘を見学に伺っていました。ナショナルトラストの方もご一緒で、見学のなかで、軽井沢の別荘の今後についてのお話もいろいろ伺うにつけても、この土地の稀な性格について勉強しました。
景色を構成しているのは個人の家々ですが、景観というのは共有の存在です。がひとたび相続という問題が発生したときには、共有という観点はまったく影を潜め家屋も周りの土地も「私有財産」ということになり、みるみるうちに共有財産であった景観は壊されていってしまうという現実。指定を受けるほどの歴史的、建築的価値があるものは限られており、でもそれ以外のものであっても、個人のものだから勝手にしていいかというとそうではないように私は思います。
別荘という特殊な建築物が多いこの土地では他の場所では考えられないようなことがあるのですが、そのことが住宅地図が隅々までできている都会ではわからなかったことをいろいろ気付かせてくれます。
例えば「塀」。軽井沢ではあまりお目にかからないものです。作らないことが望ましいとされてきましたが、昨今犬を放し飼いにしたいとか、隣との境界をはっきりしたいとか、野獣(いのしい、狐、猿、熊)の侵入を食い止めたいという理由でできてきているようです。この塀が無いとういうことがこの土地の性格をわかりやすく物語っているように思います。
空も地面も川も使わせてもらっており、人は平面の地図の上だけで生きているのではないはずなんだけれど。雪の中を飛び回っているシジュウカラを見ているとしみじみそう思います。野鳥にも、ねずみにも昆虫にも「塀」はまったく意味がありません。厳冬の冬、ここの今の活動している生物の数のランクというと、明らかに人間は下のほうです。だから、あまりえらそうなことはいえないかなと。
昨日見た別荘は、なかなか立派な建物とその歴史を持つものでした。なによりその行く先を案じているということが素晴らしい。使い続けてきているので原型はとどめていませんが、一朝一夕ではできない営みについての理解、そういうことを含めて今後のことを考えてゆけるとよいなと思います。屋根近くの外壁に立派な啄木鳥の穴がぽっかりと開いていました。これもまた一つのこの家の証です。

さて一つ余談ですが、中山道の工事の中で昨今明らかになったことは、いつの間にか外灯がもう決まってしまっているということ。どういう風なものを、どのようにつけるか。そもそも外灯設置はどの程度必要なのか。このあたりを話し合う機会もあるのかと思いきや、とっくの昔に決まっており、もう口をはさむ段階ではないらしいのです。これもまた景観は誰のものなのかという話です。ここで商う人、生活する人、ここを訪れる人がいるわけですが。公衆トイレや、ゴミ集積所のある駐車場など人が夜半でも訪れる可能性があり、人家があまり無いところには灯火は必要。一方、商店、飲食店、人家もあるところは看板の電気をつけることを奨励して、新たな構築物は作らないというのも一案だと思います。あるいは現在電柱が建っている場所は少なくてもその穴が残るわけで、穴の再利用というのはどうなのだろう。