otobokecat’s blog

たまに本を読む猫

はたちの重み

今年の成人の日は特別な思いで迎えました。震災被災者の家族である我々にとっては。
地震体験の当事者であれば、地元の若人の晴れ姿を目にするのは感慨もひとしおだと思いますが、残念ながら、我が家のその二人はもういません。戦争を体験した親の世代は、まさか生きている間に再びこんな悲惨な場面に遭遇するとは思わなかったと、地震の直後に漏らしました。特に義母は若き日に空襲を体験しているので、街が破壊される体験を人生に二度も目の当たりにしたのです。
人生のどの時点で災害に遭遇するかによって大きな違いがあるように思います。両親にとっては、穏やかな時間であるはずの70歳台に大災害に被災したことは、家もつぶれず、怪我もしなかったものの、あれで寿命が縮まったかもしれないなと、今にして思います。

そんなこともあって、今年の成人の日は、大地震で失ったものの大きさを改めて認識すると同時に、その年に生を受けた、あの揺れを記憶していない子供たちあるいは、記憶にない状態で一緒に揺さぶられた子供たちが、この二十年間であんなに立派になったということに、一筋の光、救いが感じられました。
成人の日を迎えた方々は、自分の誕生日を毎年迎えると同時に、震災記念日もまた毎年迎えてきていたわけですから。ご家族にとっては、この新たな命が身近にあったお蔭で、なんとか頑張ってこられたといっても過言ではないでしょう。知り合いに二十歳の子供はいないけれど、テレビの画面の晴れ着の青年たちをとても愛おしく感じました。
阪神間の街は、表面的にはすごくきれいになりました。毎年年越しをしていく際に実はずっと感じていた、どことなく生きる匂いが薄い美しい街並みにも、こうやって育ってきた立派な新たな人がいるということでとても安堵しました。

1月17日を前に、節目でもあるということで、俄かにマスコミに連日取り上げられるようになったものの、ここ4年間は沈黙を強いられてきたかのようでした。東北の地震が起きてからというもの、大地震といえば東北になってしまって、地震のみならず、津波原発の災難も加わり、人々の関心が阪神淡路から遠のいてしまった感じがあるかもしれませんが、大都会の、しかも全く予期していない大地震に見舞われた明け方の恐怖は、想像を絶するものだと思います。

今日は極めて静かであった追分宿ですが、鎮魂の思いで一日を過ごしました。

時折、珍しく強い風が雪原を吹きわたり、生きていく厳しさをしみじみ感じる日でもありました。